本文
広島市水道の歴史(昭和~)
昭和初期の拡張事業
昭和時代を迎えると、隣接した7つの町村との合併により、昭和4年(1929年)には人口が26万人にも達し、夏ともなれば最大給水量をこえるなど、給水危機になったため、第3期拡張事業を行いました。
ところが、第3期拡張事業以後、広島市はますます発展し、市民生活の向上とともに使用水量も伸びたため、人口・給水量ともに計画量に達してしまいました。さらに、日中戦争が起こると、軍需生産の拡大に伴う各種工場の建設や拡張などにより給水量が大幅に増えたため、第4期拡張事業を行いました。しかし、昭和16年(1941年)に着手したこの拡張事業は、太平洋戦争により一時中断したため、戦後に完成することになりました。
昭和後期から平成の拡張事業
第4期拡張事業が完成する昭和35(1960年)・36年(1961年)頃には、都市も様変わりし、建物の高層化と農地の宅地化によって、人口が著しく増え、水洗トイレや電気製品が普及するなど生活スタイルの変化とともに、使用水量が飛躍的に増えてきました。そこで、第5期拡張事業で緑井浄水場の建設など、給水体制を強化しました。
第5期拡張事業の後も、広島市の発展とともに、高陽浄水場などを建設した第6期拡張事業、引き続いて第7期拡張事業を行い、今後の水需要に対応するための新たな水源を求め、施設の拡充を行いました。
災害にも強く、安定性が高い水道、安心して利用できる安全な水道として、高水準の水道づくりをめざしています。
広島市水道創設100周年
広島市の水道は、明治31年(1898年)に創設され、以来、市勢の発展とともに大きく成長し、市民生活に欠くことのできない施設として、重要な役割を担っています。
これまで、断水もなくおいしい広島の水道水をお届けできたのはひとえに、母なる川 ”太田川”のおかげでもあります。
広島市水道局では、水道創設100周年を記念し、太田川を将来にわたり、清流として次世代に継承していくために、その源である冠山が位置する源流域に、水源林を取得し、住民参加による森林保全活動や森林学習の場として活用し、水源かん養の重要性について啓発する「水源涵養モデル事業」に取り組むこととなりました。
母なる川”太田川”
西中国山地に源を発する母なる川”太田川”は、いくつもの支流を飲み込んで、南南西に向きを変え、河口付近で6本の流れに分かれ、海への道をたどります。広島市が古くから「水の都」といわれるゆえんは、この川がつくり出す独特の風情にあります。
花崗(こう)岩の大地に磨かれた水は、まろやかにしてふくよか。太田川中流の行森川から祇園水門までは、「名水百選」にも選ばれています。
これまで100年間も私たちの生活を支え、育んでくれたかけがえのない太田川。これから、200年先も、300年先も、ずっとその環境と清らかな流れを大切に守らなくてはなりません。