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※広島市編集「原爆体験記」より引用
私は今回、原爆体験記を書くに当たり、昭和二十年八月六日、一発の原子爆弾によって犠牲となられた二十数万の市民の御霊に謹んで黙とうを捧げます。
その日ちょうど非番だった私は、末っ子の疎開先へ学用品を送ってやるため、広島駅まで行っての帰り、B29の爆音を聞いて「あー、またきたな」と思っている時、あちこちから警戒響報のサイレンが鳴りひびいた。
ちょうど自転車で饒津神社前に来かかった時、ピカッと光って、全身真っ白い光に包まれてふきとばされた。「爆弾が落ちたな」と思って石垣の陰に退避し、上の鉄道線路を見ると、貨物列車が停車し、貨車二-三輌が転覆して線路の枕木がチョロチョロと燃えていた。
私の隣にいた人は、爆風でとんだガラスの破片で首がザクロのように裂け、全身血みどろになって自分の勤務先である郵政局へ連絡してくれるようにと私に頼むのです。「よし」と引き受けて私が常盤橋を渡りかけると、何と向こうから異様な姿の人がぞろぞろと渡ってくるのです。半裸体で髪を振り乱し、両手を上にあげた人、まるでぼろ布をぶらさげたように手の皮膚がだらりとさがっている人、人、人。
「これは大変なことになった。何とか早く帰らなければ」
この様子ではとても郵政局まで連絡に行くことは不可能だと思った私は、今度は神田橋へと急いだ。
ところが突然路地からひとりの婦人が飛び出して、「おじいさんが家の下敷きになっているから助けてください」と言って私の手を引っ張って放さない。行って見ると、崩れた家の下敷きになって、奥の方でかすかに動いているのが見える。一生懸命家族の名を呼び、助けを求めている。ふたりで力を合わせ、上の棟木等を除きかけたが、ふたりだけではとうてい助け出すことはできない。そのうちに近所から火の手があがり、ぐずぐずしていては一緒に焼け死ぬばかりとあとに心を残しつつ、非人情をわびて先を急いだ。
神田橋から牛田街道を見ると、道路側の家からはみな火の手があがって盛んに燃えており、橋を渡ることもできない。川もちょうど満潮で、仕方なく橋のたもとの空地へ避難した。
そこには、すでに白島方面の人が四、五十人も避難していたが、皆ぼう然と火の手を眺めているばかりだった。
浄水場方面にも、もうもうと黒煙があがっている。私は浄水場の重油に火が付いたのではないか、と気がかりでならず、川の干潮を待って衣服を頭にくくり付け、岸伝いに歩いて工兵橋付近から牛田街道へあがった。その間上流からナべ、カマ、飯ごう、家具類が次々と流れてきて、被害の大きさを物語っていた。
やっと家にたどり着いたのは午後一時過ぎ、幸いにわが公舎は障子が吹き飛んで家の一部がこわれただけ。家族の無事を確かめた私は、その足でただちに浄水場へと急いだ。
先程見た黒煙のことが気になっていた私は、あの火事が浄水場の重油でなかったとわかり安どの胸をなでおろした。
場内正面機械室には、二百馬力内燃機動送水ポンプ三台、三百五十馬力発電気直結内燃機一台、その他付属機械、重油タンク四基、奥の送水ポンプ室には百五十馬力の電動送水ポンプ四台、中央木造建てには二百十馬力の電動送水ポンプ三台、取水ポンプ室には三十五馬力の電動取水ポンプ四台、原村には百五十馬力の電動取水ポンプ四台、これらを常時運転して市内に給水している。
第一変電所には出力三百キロボルトアンペアの変圧器九基、第二変電所には七十五キロボルトアンペアの変圧器四基で府中変電所から受電している。
電気関係は爆撃によって全部だめ。この場合一刻も早く予備内燃機を運転して市内へ給水しなければならない。これが自分たちの任務だ。
室内にはいって見れば一面にガラスの破片が散乱している。どこにも人影はなくシーンと静まり返っている。さっそく周囲を取り片付け、機械の間に食い込んでいるガラスの破片を取り除いて運転の準備をしてポンプを調べてみると水が無い。迎え水を入れなければ揚水しない。私は夢中で数々の弁を操作した。火傷の痛みをこらえ全身の力を振りしぼって、やっとポンプに水がはいってきた。「しめた」。
平常人員がそろっている時は何でもないことだが、あの危急の場合、自分ひとりの力で水を出すことができた喜びで胸が熱くなった。
やっと一台運転できるようになったが、あとは起動用圧縮空気が無く運転することができなかった。それでも一時間に六百立法メートルの給水ができたのである。
その時、藤井繁市という工員が、「堀野さん手伝いましょう」と言って来てくれた時は、それこそ地獄に仏のうれしさであった。
作業員は全部で十五名を三直に分けて三交代。一直に五名の作業員だが、そのうち傷ついた者や職場放棄の者もあって二、三名の小人数で屋根の破損箇所にキャンパスでおおいをかけ、ローソクの光で当直にあたった。
ろ過池には水がある間はよいが、このままでは明日は水が無くなる。何としてでも取水しなくてはならない。それには自家用発電機を運転して取水ポンプを動かし、あわせて空気圧縮機で圧縮空気を作り内燃機二号、三号を運転する。こうして市内への給水量を増さなければならない。
さっそく発電機を調べてみると異状なし。第二変電所へ送る配電線路にアースがあり、次々と四本の鉄塔に登って不良ガイシを取り替える。やっと送電して電動取水ポンプと圧縮機を回し、圧縮空気を作って内燃機二、三号を回し、ついに三台を運転する。これで市内への給水量一日三万五千六百立法メートルとなった。
人心の混乱もやや落着き作業員もぼつぼつ復帰し、皆んなの協力で電動送水ポンプを分解、手入れして運転の準備をする。
第一変電所内の焼損変圧器を取り除き、油入開閉器の応急修理、予備変圧器を使用して結線替えをし、電気会社からの受電を待つ。
その際、電信隊からの協力があり非常に助かった。
受電を受けた日は二十年も前のこととてはっきりした日時は覚えていないが、百六十五馬力の電送ポンプを運転して給水量は一日約四万一千三百五十立法メートルにおよんだと思う。
このような係員一同の努力にもかかわらず、全市にわたって水道管の破損が著しいため、まるでザルの中に水を注ぐようなもので、量水器が示す如く夜間と昼間との給水量にあまり差がなく、出しても出しても追いつかない、といった有様だった。
「水源地では一体何をしているのか」と何度も電話で苦情を言われたが、あの時の従業員一同の日夜寝食を忘れての働き振りは、今もありありと残っている。
だがあの非常の時、市の周辺部において防火栓の水を飲んでいる姿を見た時は、水のありがたさとともに、自分たちの任務の重大さをしみじみと感じた次第である。
その後、送水ポンプ六、七台を運転するようになったのは、ずっと後のことである。
あの混乱時、作業を続けていたのは鉄道と電気会社と浄水場だけだったと思う。
私は左首筋から顔、手にかけての火傷がひどく痛み、手ぬぐいでほおかむりをしての作業は随分苦しいものだった。課長から「堀野君、治療してもらい給え」と言われて、東練兵場に設けられた救護所へ行ったが、ただ上皮をはいで油を塗るだけ、痛みは増すばかりだった。
今度は市役所跡に臨時治療所ができたと聞き、真夏の太陽がカンカンと照りつける日中、一面の焼け野が原をとぼとぼと歩いて行った時の苦しさを今だに忘れることができない。
あの広い町が端から端まで一望のうちに見渡せる。目をさえぎるものと言えばビルの残がいが、点々と立っているだけである。軍隊によって整理された焼け跡は、道路がくっきりと浮かびあがって碁盤の目の如く、その時の私にはむしろ美しくさえ感じられた。
さて治療は受けたが痛みはいっこうに止まらず、いろいろと素人治療の末、毎日塩水で洗っているうちにやっと痛みが取れておいおいと快方に向かった。
私の家は、日宇那塩湯の裏手の山の上でした。
昭和二十年八月五日の夜中に空襲警報があり、私は、警備員としてただちに基町水道部の警備につきました。六日の午前五時に解散し、自宅に帰りました。夜中に警備についた者は正午出勤なので床につきました。時間は午前七時四、五十分だったと思います。また、空襲警報でおきあがり、広島湾の方の上空に三機広島にはいるのを見て身じたくをととのえて出勤しました。
自転車で丹那まで出た所で警報が解除になり、自宅に帰り、また、ふとんの上にころがっていると、どうも上空にB29の爆音がするようですので、家内に「わしは目が悪いから、あんたよく見てくれ。どうもB29の音がするが」と言いました。家内が「アー、あそこにおりますよ。広島の方へはいってきます」とさけぶので、「どこだ、どこだ」と言うと、「それ、あの松の枝のところよ」と言うからよく見ると、なんとB29が小さく小さく見えるではありませんか。
そこで私は家内中の者に「こんなに高く飛んでくるのはどうもおかしい」と言い、もしも爆弾の音がしたら台所のところへふせるようにと注意しました。そのうち、B29は山にかくれて見えなくなりました。ところがその直後、市内から宇品方面へなんともいえぬ黄色、緑色、薄オレンジ色の光線が光りました。私は無中で「ソレー」と叫びますと妻、母、娘は台所の方へ行き、私も立ちあがってふとんをかかえました。瞬間、ドンと大きな爆音とともに畳は一尺ばかり飛びあがり、天井板ははねあがり、山手の窓ガラスは粉みじんにとびちり、一時はほこりで一寸先も見えぬ有様でした。ようやくにして皆んなふせておる上からふとんを二枚かけ、恐怖におののきつつふせておりましたが、その後何の音もしないので、私は「皆んなじっとしておれよ。私はちょっと表へ出て見てくるから」と、家を出て市内の方を見ました。なんと大きなキノコ雲が立ちあがっておるではありませんか。これは、兵器廠の火薬庫に爆弾が落ちたのかも知れぬと思い、黄金山の中間まで登ってみると、なんと兵器倉庫の方ではなく、市の中央が火の手をあげておるではありませんか。そのうちにもキノコ雲はだんだんと大きくなり、市の中央はまるっきり夜のように黒く見えておりました。私は、さっそく家に帰り、皆んなに話をして出て見るようにと言いました。
今度きたら、皆んな防空ごうにはいるようにと言い残し、子どもが心配なので楠那国民学校へ三女を迎えに行きました。ガラスの破片で三、四個所けがをしておりましたが、幸いにして、暁部隊の兵隊さんに薬をつけてもらい、手当てを受けておりましたので連れて帰りました。
さて、その次は長男と長女のことが気にかかりました。長女は宇品におるからあまり心配もしなかったが、長男は勤労奉仕で建物疎開に行くといって学校へ行ったものの、どこへ行っておるのか見当もつかず、皆んなで心配しておりました。正午ごろ、顔や手をやけどではれあがった姿で帰ってきましたので、一時はほっとしたものの手当てが大変でした。とっておきのシラシメ油をやけどにぬり、かわけばまたぬってやったが、本人は大変痛がりました。
そのうち、日宇那にも被爆者が次々とはいりこんでくるやら、町内会の勤労奉仕隊の男女十数人が、顔や手足を焼けただらせて、苦しみながら帰ってきました。この時、私は思わず「心配するなよ。このかたきはきっと取ってやるからな。気を大きくもて」と励げましましたが、早い人は翌日死んだ人もおり、三日目には大方の人が次々と死にました。
私は、午後二時ごろから役所へ出ることにして家を出ましたが、丹那橋あたりから被爆者がごろごろ道ばたにねころんだり、すわっておるのをみて通りますと、あちこちから「水をくれ、水をくれ」と呼びかけられたが、「水をのんだら死ぬるんだから元気をだせ」と言って通るのがせいいっぱいでした。まったく深刻な思いでした。このようにしながら御幸橋に出ましたが、橋の上では、倒れた石の欄干を枕にして死んだ人や虫の息でうんうんとうなっている人で、まるきり地獄絵巻を見るようでした。千田町は火事で市中にはいることができず、比治山橋に回りましたが、これまたはいることができないので、役所のことを気にしながら家に帰りました。
家に帰ってみると、被爆者の方々が二組、計五名の人が二、三日置いてくれと言われるので、表六畳の間を貸すことにしてお世話をしました。
翌七日は、三食分の握りめし(大豆入り)を作り、七時三十分に家を出て、比治山橋から雑魚場町をへて基町水道部へ行く途中、新川場町の妙見院の前の防火用水そう(幅一メートル、横二メートルぐらい)で、母親が片すみに立ち、赤ちゃんをまたの下に入れ、その次の小さい子どもをまたにはさみ、大きい子どもを小わきに抱え、母親は苦しまぎれにのけぞり、むし焼きになり死んでいる姿を見ました。私は胸をうたれ、持っていたかんぱんをひとにぎり、むすびを一つ置き、手を合わせ、しばし黙とうをささげました。死の断末までその形をくずさず、子どもをかばっている姿は、まったく神々しく頭がさがり、念仏合掌をしました。いろいろと母性愛ということはよく言われますが、これが真の母性愛だと思いました。このほかにも焼け跡のがれきから半身を出し、それを女の人が手を握り、引き出す様子で死んでいるのを見ましたが、こんなのを見ると、自然と頭がさがり、念仏のひとつも出てくる有様でした。
小町にはいり、高橋弁護士宅の防空ごう(町内会の立札がしてあった)のところまでくると、「浜角のおじさん」と呼びかけられました。みるとKさんでした。とんで行き、お互いに無事であったことを喜び合いました。聞けば、六日の朝から何も食べておらぬとのことで、私はさっそく市役所に行き、総務部長の平井さんや助役の柴田さんに事情を話し、十人分の乾パン二食分ずつもらって町内会に渡し、「午後にはたき出しがあるそうですから、もらいに行きなさい」と言って、基町水道部へと急ぎました。
行って見れば、だれ一人おらず、死体がころがっていました。調べてみると二十一死体、女が四名、男が十七名、そのうち部外者が一名でした。女の方は水野ヨネ、有江康子、田尻百合子、池内玉代。男の方は升岡、山根、徳城、木下、村井、高野、世良、吉村、英、岡田、槙田、武藤、佐藤、湯浅、高田、田坂でほか一名は外来者と思い、手帳に控えておきました。後日、己斐町の土建業者の方がこられ、「八時前に水道工事のことで役所に行かしたが、原爆の落ちた時分は役所にいたはずだ」とのことで、着ていた物とか、はいていた靴下、パンズ等が私の見たのと一致しており、また見つけぬ自転車が一台、事務所の前にあるので、それをみせたら、これにまちがいないとのことでした。そして、本庁の安置所に行き、お骨を渡してあげました。
それからは私ひとりで、遺族の方の応対やら、死体を焼いて渡すやら、そんな日が五日間続きましたが、知人は表を通ってもだれひとり立ちよって手伝ってくれず、まったく困りました。一人一人の死体について、警察に行っては現地調書を三通ずつ作り証明書といっしょに渡すので、紙がたくさんいり、自宅から洋紙を持参するなどしました。
朝、家を出る時は気分が良いのですが、死体処理にとりかかると吐き気をもようし、全身がだるくなり、下痢はするし、死体は日一日となんとも言いようもない臭気を発散するので、誠に苦しみました。こんな日が六日間もつづきました。
たびたび、浄水場の篠原課長の所に連絡しても「行かす。行かす」というばかりでだれひとり手伝いにこないので、五日目に軍へ兵隊さんを借りに行くと、分隊長から「五日にもなるのに、市の中央に死体をほっておくとは何事か」と、大目玉をもらう始末です。
仕方なく本庁に行き、部長さんに相談したら、「よし、私が部隊長に話してやる」と心よくいわれ、部隊長あての名刺を受け取り、福屋百貨店のところにいた部隊長の所に行きました。
今度はがらりと態度が変り、兵に声をかけ、五人といったのに十人も手伝ってもらい、残骨の整理や、受け取り人のない死体を整理し、ようやく五日目に焼きました。その時の部隊長が陸軍中佐で、分隊長は大尉でした。本部は富国ビルか住友銀行の焼け跡でした。
その後、十一日午後から紙袋を作り、それぞれ名前を書き、本庁の安置所へ持参しました。そして、次々と家族の人が私を尋ねて遺骨を引き取りにこられ、一か月後には全部お渡し、ほっとしました。その後、皆んなのお勧めで本庁勤務となり、罹災証明書の取り扱いをしたり、また町内会へ物品の配給をしたり、毎日皆んなと忙しく立ち回りました。
しばらくして、「新型爆弾は原子爆弾である」ということを聞き、まったくびっくりするとともに深刻な思いをしました。それからというものは、あれがよい、これがよいというものは全部取り入れ、飲めぬ酒もむりやりに飲みましたが、一か月後には頭や腹にはん点や出物が出て、それにさわれば非常に痛みを感じ、四、五日後には腹に幅四センチ、横八センチぐらいの出物が出て、一か月ほど困りました。そのうちに、顔や手首がはれあがり、自分でこれが自分の顔かと思うほどにはれあがりました。歯はがたがたになるやら、頭の毛は少しずつ抜けるやらで、もう助からぬと内心あきらめておりましたが、いろいろと家族の者や知人の方々の援助があって、比較的に早くよくなり、命だけは助かりました。これというのも皆様のお世話をしたおかげで助けていただいたものと思い感謝の気持ちでいっぱいです。
このほかにもまだいろいろなことがありましたが、とても筆や口では言いあらわせぬ様相ばかりです。原子爆弾の恐ろしさは二度と会いたくありません。
終りに、原爆の犠牲になられ、死亡された方々の冥福を祈りつつ筆をおきます。
朝早くからじりじりと太陽に照らされて汗ばむころ、巻き脚半に戦闘帽姿で職場に向かう。職場は牛田町にある浄水場である。夜勤の職員から申しおくりを聞き、交代をする。この時午前七時であった。自分が本番であるから、まず浄水場内や、各ポンプ室の運転状況を見回って新設の送水ポンプ室に帰る。各室の運転日誌をみて報告簿の記入にかかった。
はやくも時刻は午前八時を過ぎている。もう一息という時に浄水場内の変電所で、大きな火花と、どすんという腹底にこたえる音響と同時に電動ポンプ室内のモートルから火を吹いた。「やったな」と思い、立ちあがろうとしたら爆風でよろめく。その時、配電盤の手すりで腰を打ち少々痛みがこたえる。また、この爆風で前の壁にかけてある柱時計が机の上に飛んでくる。屋根瓦が落ちてくる。無意識に机の下に頭を入れたところが、背中や腰が出ていたので瓦が落ちてきたのが腰に当たる。息も止まるばかり痛い。これはいかんと室外に出て防空壕にはいる。壕の中には工員がひとりガラスの破片で顔や手にけがをしてはいっている。すぐ手当に行くように言ったが、手当室は窓の柱が折れ、ガラスの破片等ではいられないとのこと。
音響は一回だけで後が続かないので恐る恐るようすをみに壕から出る。腰の痛みは増すばかり。ポンプ室は屋根が二平方メートルぐらいの穴があいている。瓦とガラスが散乱していた。
まず、ポンプの揚水弁を閉鎖せねば配水池の水が逆流するおそれがあるので、三台とも閉鎖した。この時電動機の中にもガラスの破片が見える。これでは電源があっても手入れを十分せねば運転はできないと思い、配水池の水はいかにと量水室に行く。この室内も同様ガラスの破片で大変である。量水器は三台とも最高の速度で流出している。この速度で流れ出れば配水池の水はたちまちになくなってしまう。これはいかんと配水池に登る。急げども腰が痛むので歩行も困難である。ようやく配水池内にはいってみると、哇出管からは大きな渦を巻いて流出している。とっさの考えで配水弁を二箇とも渦巻きが止まるまで絞る。
配水池の山からは煙で何も見えず、市内のようすは全く不明である。
私は空襲の体験は初めてであるから、空襲とは恐ろしいものと感じ、爆弾の力に驚き、どうして防衛してよいか見当もつかない。ただ飛行機による投下弾とのみ思った。
ポンプ室の屋根は、鉄の合しょうより上が爆風のため十センチぐらい横に移動している。屋根が落ちなんだのが幸いである。また、棟の上に備え付けの避雷針台と避雷針はともに地上に落ちている。ろ過池の偽装網は焼けている。わずかに残った部分がくすぶっていた。また、神社の山は落葉が腐葉土と化していて、それに晴天続きで乾いているため、火がついてだいぶんくすぶっている。これは大変になると三人でバケツで水を運び消しとめた。
浄水場前の県道は負傷した人がひっきりなしに戸坂方面に避難している。皆んな火傷でふためと見られんような火傷を顔や手足に受けてほんとうに残酷な姿である。
私は当時ちょうど壁の陰で仕事中であったので火傷をまぬがれ、皆んなとともに浄水場内の一部分の処置ができたのが幸いであった。
さて、配水池の水位が気にかかり配水池の山に登る前に量水器室を調べるとまだ相当な速度で市内に流れ出ている。二度目は工員とともに山に登る。腰の痛みでなかなかはかどらない。配水池は朝は満水にしているのが普通であるが、今は一メートルぐらいしか残っていない。それで配水弁の開度を十六分の一くらい残すまで閉鎖し、急ぎ山から降りた。
内燃機室に戻ってみると、非番の人も来てくれていたので、皆んなとともに機械の上のガラスや瓦の破片を除き、まず一台運転できるよう準備した。このとき心配だったのは、電源を切断せられている内燃機を起動する圧さく空気が補充できないため、始動に失敗すれば内燃機は運転できなくなることであり、もう一つは、配水池の水がなくなれば揚水ポンプ内に充水できなくなり、また、内燃機の冷却水の圧力が減少すると冷却できなくなることであった。懸命に準備を急いだ。しかし腰の痛みは増すばかりである。そのうち運転の準備ができた。それで初回に失敗せぬよう慎重に敏速に起動のかんしを入れて空気起動を始め、つづいて油に切り替えるレバーを入れた。その瞬間に油の爆発が起こり、内燃機は運転状態にはいり揚水が始まった。そのときのうれしかったことは筆舌に尽くせない。そのとき時刻は、午後二時ごろだったと思う。
やれやれうれしやと思った。妻と子どもふたりが火傷していると、近所の人が知らせに来てくれた。それで運転をほかの工員にたのみ、ちょっと公舎に帰ってみると、ふたりとも顔と手に火傷をして前の大田川辺で冷していた。
家の中は一部天井が落ちタンスは倒れ、屋根は一平方メートルぐらい穴があき、壁が抜けて室内はガラス、瓦、壁土が散乱し足の踏み込む所もない。二男、三男が学校から帰って来たので、室内の掃除とふたりの看護をさせ、私は浄水場が気がかりなので浄水場に引き返し、これまで私のとった処置を篠原技師に報告しておいた。
内燃機は故障もなく運転していた。配水池の水はいかにと工員と山に登ってみると、水位はもはやわずかとなっていた。さっそく内燃機一台で配水池に揚水せずに直接市内に送り出すように配水弁の閉鎖の操作をし、夜間使用量が減少すれば配水池に溜まるようにしておいた。のちほど市内からの情報によれば市中は全焼とのこと、それでは夜間の水の使用量の減少はないと思った。
夕方となり電源はないので暗がりで内燃機を運転する。非番の人も来てくれたので皆んなでその日は当直することにした。
当直でいた人で負傷した人は帰ってもらったので、人員はわずかである。ローソクの火をたよりに交代で当直をした。交代のわずかな時間に自宅に帰ってみると二、三男が妻と四男の看護をしてくれている。火傷で苦しむ者の看護も楽でない。ときどき食用油を塗ってやるにも火傷の痛みで苦しむのをみるのも気がいたむ。
私は、家庭内も心配であるが、浄水場も気にかかるので、場内で当直をすることにした。たしか八日ごろ、夕方から夜間にかけて町内から「敵機の空襲がある。皆さん壕にはいってください」と警報が伝達された。さあ壕にはいろうと四男を起こすと、「ぼくは火傷がいたい。どうせ死ぬるのだから家の中に置いてくれ。皆んな早く防空壕にはいってくれ」と言われた時はどう言っていい聞かせたらよいかわからなかった。ただ可れんなー言に泣かされたと妻が今もって思い出しては涙ぐむのである。
被爆後、二十年を経過した今日、市内は驚くほどの復興をしたが、一生心配なことがある。妻と四男は、初めは体内のあちこちに原爆症があらわれたり白血球、赤血球に異状があって大変心配したが、幸いに医師にかからずに七十日余りで火傷のあとを残して全治し、今日では平常になっているが、いつ発病するやら知れんので、余り心地がよくない。