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歴史の中のできごと

ページID:0001362 更新日:2021年11月1日更新 印刷ページ表示

ここから、歴史の中のできごとをいくつか紹介します。

広島市水道と原爆~不断水記録~

水道

1945年8月6日 日陰さえ消し去られた 広島の街に
赤児をも焼き尽くした神も目を覆う 地を黒く染めて 水道水は飛び散る
あの時 すぐ牛田浄水場に駆けつけた 非番の男たち ポンプは人力で動かし
辛うじて即死を免れた市民の 渇きを助けた 水を飲むとやけただれた皮膚はふくれ
はじけまくれて息絶えたひと ひと ひと 力尽きても交替で
ポンプを動かし続けた職員たち 水は送りつづけられ
壊れた水道管から したたり落ちた

(みやち治美)

きのこ雲写真
きのこ雲

Water Supply

On August 6,1945
In the streets of HIROSHIMA
the flash erased all the shades
burned even the babies to the ashes
Splashing water from the pipes wetted the ground black
which god wouldn't look at
At that time
to Ushita Purification rushed off-duty men
who operated the pump by human power
and quenched the thirsty citizens who barely escaped instant death
When they drunk water their hideously burned skin got swollen
they fell down and exploded one after another
The exhausted staffs never cease working the pump alternately
Water kept supplying
dripping from the broken pipes

- Harumi Miyachi -

作者:みやち治美さん写真
作者:みやち治美さん

この詩は、平成8年(1996年)、北米全域を対象にしたアメリカ国立図書館主催のコンテストで編集長賞を受賞した※作品です。

作者の「みやち治美」さんは、暁部隊として被爆者の救援にあたった父親から、当時の惨状を聴き、被爆直後の「広島市の水道」を題材としてこの詩を書かれました。

当時、牛田浄水場内の公舎に住んでいた職員の堀野九郎さん(51歳)は、疎開しているわが子に学用品を送ろうと、広島駅まで出かけました。その帰り道、昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分、にぎつ神社前で被爆したのです。

原爆投下と同時に牛田浄水場は停電し、送水が停止し、配水池に残っている水だけで給水が続けられていました。

被爆し、火傷を負っていたにもかかわらず、堀野さんは牛田浄水場へ駆けつけ、壊れたポンプを必死に応急修理しました。そして被爆6時間後の午後2時ごろ、予備の送水ポンプの運転が開始され、夕方から1日43,000立方メ-トルの給水ができるようになったのです。

堀野九郎写真
堀野九郎

日誌写真
日誌

このひとりの職員の行動により、広島市全域での断水は避けられ、水道創設以来、最大の危機を免れました。いまでも、広島市の水道は、この不断水の記録を伝統として守り続けています。

原爆投下当時、市水道部職員は186名でしたが、そのうち83名が原爆で死亡、特に水道部基町庁舎は爆心地から数百メートルの至近距離にあったため、勤務していた職員は全員殉職という大惨事となりました。このため、8月6日の朝の基町庁舎でのできごとを知る人は、誰一人としていません。

これは、経理課所属のあらきふみこさんの被爆した時計です。当時、あらきさんは、勤務地の基町庁舎に向かう途中に被爆し、牛田浄水場まで避難して同僚などの看護を受けましたが、亡くなりました。

被爆の悲劇を物語る、この貴重な時計は、現在、平和記念資料館に展示されています。

被爆した時計写真
被爆した時計

※"The National Library of Poetry"主催の"North American Open Poetry Contest"で"Editor's Choice Award"を受賞。日本語訳は作者の申告によるものです。

水害

美しく市街を流れる太田川は、私たちに様々な恵みを与えてくれる一方、洪水という過酷な水害をもたらし続けてきました。

水道ができる前は、川の水を直接、飲料水にしていたため、洪水や長雨で河川が濁ると、使用できなくなったり、様々な病気の原因ともなり、庶民の生活を脅かしていました。

大正15年(1926年)9月には、1時間のうちに雨量357ミリという記録的な豪雨により、市内1万戸の家屋が浸水し、また、昭和3年(1928年)6月にも暴風雨のために栄橋の水管橋が崩壊、沈没しました。

このほか、昭和20年(1945年)の枕崎台風、24年(1949年)のデラ台風、25年(1950年)のキジヤ台風、26年(1951年)のケイト台風、ルース台風でも、大きな被害を受けました。

水の中の女性写真
水の中の女性

栄橋写真
栄橋

事故

私たちの生活に大きな影響を与えるものは、自然災害だけではありません。

前ぶれもなく発生する”不慮の事故”は、予想することが難しいため、市民生活や産業活動に重大な影響を及ぼすこともあります。

似島海底送水管破損事故

平成2年(1990年)2月、広島港沖合約2キロメートル付近で、似島海底送水管の切断事故が発生しました。

広島湾に浮かぶ似島には、昭和42年(1967年)に完成した海底送水管により給水を行っていましたが、この事故によって送水不能となりました。

事故当日は、給水車とポリタンクで応急給水し、翌日からは、給水船による運搬給水で対応を行いました。

壊れた送水管写真
壊れた送水管

シアンによる太田川水質汚染事故

平成4年(1992年)10月2日午前9時45分、太田川漁業協同組合から、「太田川橋の上流約2キロメートル付近、魚が大量に浮いている。」との通報がありました。これを受けてただちに調査にあたり、水質検査の結果、最高0.04ミリグラム毎リットル(ppm)の濃度のシアンが検出されたため、2日正午から八木取水口、および高陽取水口からの取水を、午後1時からは戸坂取水口からの取水を緊急停止し、午後7時頃から8万300戸が断水を余儀なくされました。

その後、水質の安全を確保し、午後7時40分に取水を再開、夜を徹しての復旧作業の後、翌3日午前1時頃にほぼ全市が復旧しました。

採水写真
採水

渇水

渇水の画像

良質で豊富な水量をもつ太田川を主要な水源とする広島市の水道は、創設から現在まで100年以上の間、断水を経験していません。しかし、渇水による給水の危機がまったくなかったというわけではありません。

昭和48年に、初めて渇水による節水の呼びかけをし、初めて減圧給水に踏み切って以来、最大の異常渇水となったのは、平成6年(1994年)のことです。7月19日の10パーセントの取水制限開始から、10月24日に解除されるまでの3か月余りの間、減圧給水20パーセントの実施となりましたが、取水制限については、一時は予想された30パーセントが、農業用水道の転用によって27パーセントにとどまったため、幸いにも断水という最悪の事態だけは避けることができたのです。


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