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広島市水道の歴史(明治~大正)
皆さまにお使いいただいている広島市の水道は、明治31年(1898年)に創設して、平成30年(2018年)8月に120周年を迎えました。これまでの、広島の水道の歴史をご紹介します。
広島市水道の芽生え
デルタ地帯(三角洲)に生まれた街・広島は、井戸を掘っても塩水が上がるため、良質な地下水が少なく、人々のほとんどは川の水をそのまま飲み水にしていました。
しかし、明治時代になるとこの水が伝染病の原因となり、コレラや赤痢が発生して猛威をふるいました。
また、広島藩の時代から、何度も大火災が起こり、人々は水に対して大変な苦労をしていました。
明治27年(1894年)に日清戦争が起こると、大本営が広島市に置かれ、政治・軍事の中心となったため、多くの軍人らが集まり、水道の必要性が大きくなってきました。
こうして、人々の待ち望んだ水道布設が決定しましたが、水道技術者がいなかった広島市は、英国人技師W.K.バルトンの指導やアドバイスを仰ぐことになりました。
広島市水道の誕生
広島市の水道は、天皇の勅令により軍用の水道という形で実現することになりました。いくら軍の事業とはいっても、水道の布設のために勅令が出るということは、いまだかつて例を見ないことでした。
その勅令の公布を実現させた立役者は、当時の首相・伊藤博文と陸軍中将・児玉源太郎。伊藤博文が書いた「深仁厚澤(しんじんこうたく)」と、児玉源太郎の書いた「不舎晝夜(ちゅうやをおかず)」の石額(いしがく)は、現在も牛田浄水場に隣接する広島市水道資料館に残っています。
市民水道の工事は、軍用水道の工事と同時に行われ、明治31年(1898年)8月12日に完成しました。明治31年(1898年)8月25日午前9時30分、軍用水道工事の竣工式と一緒に、牛田浄水場で盛大な通水式が行われました。
通水式は、軍用水道として行われましたが、施設がすでに広島市へ貸し出されることが決まっていたことから、広島市水道創設の記念すべき日となりました。このため、広島市の水道は、横浜、函館、長崎、大阪に続く、全国5番目の近代水道創設となりました。
明治・大正の拡張事業
明治37年(1904年)に起こった日露戦争では、広島市が数万の陸軍将兵と軍馬の集結地、さらに兵たん基地になったことから人口が急増し、しばしば給水危機の状態になったため、ろ過池の増設など、第1期拡張事業を行いました。
その後、広島市の著しい発展により、大正6年(1917年)には、人口16万人を越えようとし、また、その15年後には、22万人に達すると予想されたため、第2期拡張事業を行いました。